昭和56年2月18日月次祭
信心をいただいておりましても, 自分が、私がという間はお徳はうけられません. 信心はなくても,おかげはやっつてあると天地の親神様は,仰せられておられますが,この神様のおげをいただかなければ たちゆかんのであり,ここ一寸うごかれんのであり 神様のおかげを頂かなければ,人間の本当の幸せはありえないのだと それを自覚するそれが解るそこから初めて本当の信心ができるんじやないでしようか。私がやっつておると, 私の力のようにおもうておる. その力そのものも,神様の御かげをいただかなければ でけることではないですから 信心がなくても,または 信心があっつても そこがわからんでおる人がたくさんおります。これからこれまでは自分がやっつて そこのでけんところだけを神様にお願いをする と言ったような考えかたでの信心では,お徳はうけられません。 どうで もひとつおみちの信心による御かげというのは お徳を受けることだと私はおもいます。
あれは、西遊記ですかね。 孫悟空とお釈迦さまですかね あの問答のなかに自分は いわゆる あの如意棒というものを もっつている自分の意のままにどこえでも あっつというまに何千里どこえでも 飛んでいけるのだと とうゆて豪語した。お釈迦様は 仏様の世界以外に飛んでいける事は できないそれでも 今まではどこでもいけるというて飛んでいっつて そして むこうの壁のようなところに自分がここまできたというしるを書いてきた。もどっつてきて お釈迦様に得々として 話したらお釈迦様が手を開かれたらお釈迦様の手の中にそれをかいておった というそんな話がございます。
どこまで どう自分が力があるというても 結局,天地金乃神さまのふところのなかである。 神様のおかげをいただかなければ、たちゆかんのですけれども それを自分の力でたちゆくように信心はなくても,私は こうやっておかげはいただいておるから、私たちは悪いことをせんから 信心をせんでも といっつたようなことをいうのが 孫悟空のいっつたようなことと、おんなじようなことではないでしょうか。
、この神様のおかげをいただかなければ ここ一寸うごかれないのだという自覚ができたところから、その神様のおかげをいただくことのために、その神様の心もわからせてもらう、 その神様のお心に添い奉らなければ、人間の幸せは、あり得ないと合点がいっつたところから、本気での生き方ができる
本当の生き方が出来なければ、 お徳は受けられないと思う。そのお徳をうける手立てを、合楽理念によっつてどんなに 縦横無尽にといてあるから というても そこのところが,わかってからでなければ、おかげにはならん。、
自分の力,自分の我力というもの 自分の力のように思うておる間は、いかに、合楽理念をもっつてしてもおかげにはならん。根本的な姿勢、根本的なところがわっかっつての合楽理念、教えである
神様のおかげを頂かなければ、というところから その神様のお心に添い奉ろうという意欲も出てくる訳でございます。
今朝からの ご理解のなかにも 申しましたのですけれども 今朝ご神前でいただきましたのですけれども 手に数珠のような よくよく見るとかな鎖のような かといっつてまた 数珠のように輪になっつているそれを 手にかけておる それを一生懸命にそれを 切ろうという 勢いで切ろうとしておる それを 御心眼に拝ませていただきながら おもうておることがあんなに一生懸命 力んでこうしなくても 手を合わせる気になっつたら すっつと その輪からぬけることが できるのにとおもっつているところであっつた。
わが子は そのなかに 手をいれて この金の鎖のようにも見える数珠のようにもみえる それを一生懸命力を入れて、これを我力というのでしょうか。我力でそこをやっておる それを拝まして頂きながら その手を力で抜けようとするのでわなくて それをこう合わせて合掌する気になったら すっと抜けるがなぁーと思っているところであった。
私は、お徳を受けるということはね そういう金縛りがあっておるような窮屈な中にあって そこから出ようというのではなくて そのことを合掌して受けられる心なんです それを 合掌して受けられる心が 御徳を受けるということになると思います。。 今朝からそのことを 思わしていただいて ところが やっぱり難しいです。 その難儀 困った 痛い 苦しい ということでも 色々ありましょうが、 そこから逃れようとして 一生懸命逃れようとする力ではなくて その苦しいことを 合掌して受ける 拝んで受けるという心なんですけれどもそれを拝んで受けるということは なかなかもっつて 難しい。拝まれん、ところが今日私がもうしますように 天地金乃神さまの おこころがわかり この神さまのおかげを頂かなければ立ち行かん その神さまは 私どもに 氏子 信心しておかげを受けてくれよと 願っておられる神様だということが 段々わかっつてくる。いつも お話を申しますますように 自分が今難儀をしている 困っておるその困っておるということは、形の上においては困っておるだろうけれども 例えばいま金に いよいよもって難儀をしておる人は神さまの限りないおかげに恵まれる おかげの頂ける土台がいまこそ出来ておる時なのだ 今一生懸命貧乏しておることが有り難く分からせて頂いたら、一生お金に不自由せんですむようなおかげの頂ける前提にあるときなんだということです これは確かにそうですよ 自分が一生懸命それに取り組んで修行させて頂いておることがそのまま徳にもなればおかげにもなる
今日のこの大盛の上に 反物が六反お供えして御座います。あれは家内が お供えをいただいております。600反からの中からよっつて頂いているのです。
私共素人ではわかりませんけど 立派な反物ばかりです。 私と家内が 布一寸買いませんという修行をさせていただきましたら 私も もちろんですけれども家内なんかでも ほんとに勿体ないような 布一寸買うことはいらん こうただけでは とても買いえないような物があっつまっつてくる 布に一寸買わんと言う修行をさせていただいたら 神様が着る物には不自由はさせんと言う働きがおこっつてきておる 私どもが金銭でこれ以上の貧乏ほどの苦しみはないと思う その貧乏のおかげをいただいたおかげで お金に不自由することのないおかげをうけておる 今、たとえば難儀をしておる、その難儀の問題を修業として受け得たときに、はじめてそれは、お金で不自由しておるならば、お金には不自由せんですむ徳の受けられる前提にあるところだから、そこのところを大切に大切にしていかねばならんのだけれども、それを大切にする、我力でそこを抜け出そうとする所に一生貧乏せんとならんことにまでなりかねんのです.それには、やはり、この神様のおかげをいただかなければ、信心があろうがなかろうが、その神様のおかげをいただかなければ立ち行かんということを、根底にわからせてもろうての、信心にならなければなりません.そこから、いうならば起きてくるさまざまな問題も、神様が、おかげを下さろう、お徳を下さろうとする、今日研修の時に今日の御理解を研修させて頂きながらとにかく、この神様はね、たとえばそこに、難儀をしておるとするその難儀を、もっと、もっと難儀に賞とする働きがある.私が、お金を借りてそれで、金の断りに行かなければならない、三べん、五へんなら断りも聞いてくださったけれども、それが、五へん、十ぺんになると、も、それこそこちらは実は、当てはないのだから、当てがありませんと言うと相手は承知せんわけですから、いついつはと言うて約束、まあ、嘘んでも約束をしてくるから、その約束の時期になったら、神様が、必ず断りにやさられた.普通であったらとても福岡から椛目までは、離れていることですから、もう断りに行くことが、じゅつないから、恐らく行かなかったでしょうところが、神様はそれでもやっぱり断りに行け、と言う.断りに行けだけではなくて行ったらまた、あちらの主人がまた、それこそ、まあ、言うなら、よい顔はせんぞ、と、いつも、私が参りますところの、棚の上にかざりものが置いてあった.バナナの置物であった.そすと花瓶がおいてあった、その横に電気スタンドが置いてあった.いつも、行きがけに、それを頂く.まあこちらは、それこそ、家内の着物の時もありや、自分の洋服のときもある.だから、それをもって行って、断りを言うのだけれどもそんな物はいらん、持ってこんでよか、とにかく金を返してもらえば、言うならばバナナじゃないけれど、自分の見のかわ剥いで断りに行っているんだけれど、その花瓶が、こうしてぶっと人間が、腹かいているような花瓶だったです.花瓶がね、、ぶうっと腹かいとるような花瓶だったです.だから、また、今日、ぶうっと腹かいとるぞ、こちらは、もうそれこそ、身のかわはいで、持って行きよるのだけれども、そちらの奥さんが、あんまりえげつのう主人が言われるもんだから気の毒で、おろろされるぐらい。私にいまでは、まあ大変仲のよっかったお方でしたから、それこそ、電気スタンドをつけて、その場を明るくして下さろうとするそれもあるけれども、主人は、ぶうっとしてまた、嘘を言いに来たかと言ったとような態度であった。だからそう言うような事やらは、教えなさらなければよいでしょう。もう其れでもなくても、じゅっつない思いで断りに行きよるのだから、おまえが、今から断りに行くとまた向こうは、ぶうっと腹かいとるぞと、そんなことい言いなさらんでもよかりそうなもんだけれども、それを、いわば、聞いて行きよったとこをみると、神様は、私をいよいよ、まあいじめた上にも、いじめようとなさる働きがあるようです。いじめると言う言葉ではない、実は、神様が、鍛えた上にも鍛えようとなさる働きがあることが、皆さん解るでしょう。この神様はそう言う神様です。ね、、ですからね、お互い今修行させて頂いているのならば、今、とうの修行をさせていただいているのなら、それこそ一つぐらいは,負けときましょう、と言うくらいな元気な心で信心しなければいけんです。こちらの方がおまけしときましょうと言うような信心の勢いが信心にはいります。そういう一生懸命のときにです、なら私は、いうなら、手に掛けられている金の鎖を、一生懸命ひっぱって、これから抜け出ようとしておる、もがいておる時だと言うふうに思います。それが,ある機会にですね、あるとき、ふと、いうならば、それを合掌する気になった、そしたら、それが、すうっと抜けた、私は、大城の電車を使ってまいりましたが、大城まで参りますと善導寺の小川さんと言う、私の小さい時の友達が、大変酒の好きな人でしたが、酒を一杯機嫌で「どこに行きよんなさるか」とこういう.「今日は、福岡に行きよる」「ほうですか、私は先日から、籏崎で、照国一行が、やってきてその時に、照国を見に行った。善導寺に来たときに、子供を抱いてもらって写真を写してもらったから、お礼に行った。その時分は、お酒の手なんか手に入らないときでしたけれども、一級酒の良いお酒を久保山さん、桶やさんでしたから、久保山さんの酒屋さんに頼んで持っていった。そのうち、ちいっずつばかり飲みよったらひっくり返ってしもうた。まあそうして、一杯機嫌で見せていただいたが、そら、もうちょっとあの稽古相撲ばかりは、見られんですばい、ちょうど、籏崎からも一人照国の弟子になったというのがいたが、あの稽古の模様を見たら、とても子供を相撲取りの弟子にはやられんともうそれこそ投げること、それこそたたいては、
引き上げあんまり苦しいもんだからグスグス土俵の外に這い出していきよると、それをまたひっ捕まえてきといて、立ててからたたいたり押したり転がしたりであ。とても肉親のものが見られる段じゃない、という話を私にしてくれるんです。そん時に私の心にひらめいたもの、たとえばね、力のないこんなものを鍛えても仕方がないと言う者を先輩が鍛えるはずがない、師匠が鍛えるはずがない、これは、それこそ、末は、橫綱んでも大関んでもなれるぞと言うような期待があるからこそ鍛えるのだ。私がいまここで本当に重い足を引きずるようにして借金の断りに行っておることもです、神様が鍛えた上にも鍛えておってくださるのだ。末は横綱だ大関だと言う神様の願いがあってのことだと、話しを聞きながら感じたのです。不思議ですね、私の心がそれこそ生き生きとしてきた。重い足が軽うなった。それこそ、どんなに言うてから、それこそ朝の御理解ではないけれど、今日はどの手でなげてやろうかというくらいな、かまえがね、今日は、どの教えを持って今日一日を過ごさしていただこうかと言う構えがいるように、借金の断りに行くときにもどういう、どの手で断ろういか、どう言おうか、というような心の状態がです、もうそれこそ銀行に金を預けに行く時のような気持ちが出来てきたんです、もう、怖くなくなってきたんです。断りを言う家の前まで行きますと、一辺に入られん、家がぐるっと回られるごとなったから、家をぐるぐる回ってから、一生懸命の思いで飛び込むように、まあいうならば、断りに行くときにはそう言う気持ちでしたけれども、もうその話しを聞いた途端に、私の心が一生懸命、金の鎖を切れんばかりに一生懸命弾んでいるときには、もう手が痛いばっかり、ただ、苦しいばっかりであった。その手がね、いうならば、こうやって、合う事になってきた。神様が、私に末は横綱かというような、力も与えてくださろうとする働き
だとわっかったときに、そのことにお礼がいわずにおれない、合掌する心になった、そういう心で意気揚揚とした心で断りに行った。もう、大坪さん、これぎりでよかばの、もうあんたが出来るだけ、払ちくれんの、もう、あんたが、しらごつばかり度々いうとが聞くのが、聞く方が、じゅつのうなった、というような意味のことでそれっきりお断りにいかんですむようなおかげを頂いたんです。ね、ですから、このへんのところがね、なろうとして難儀を拝もうとして拝めるものではない、口では言ってる。はあこの難儀のおかげで力を頂いとります、今日もおかげで、よか修行をさせていただきましたとは、いうておるけれども心から湧いてくる有難いと言う心が生まれてこなかった。けれども、その神様の心が段々わからして頂いて、天地金の神様のお心をわからせて頂くと、そこからです、私の心の中にもうこれは、わからんですね、そんなに苦しい心が反対にそのことにお礼が言える、合掌する心が生まれる。だから、ぽっかっといつか、ではなくて、一生懸命のものがあって、そしてそこに、神様をいただく、いただかしていただこうとする働きが起こってくる。その、小川さんと言う人を使って神様が私の心を開かせて下さった。その開かれるまでがおかげなのです。その開かれるまでが、今朝の御理解に福岡の吉木先生のいつも、お話の中にあっておりましたけれども、おかげを受けると言うことは、お徳を受けると言うことは、それこそ地獄の釜を踏み抜いたそこに極楽があるのだ、というておられましたが、もう本当に苦しいその苦しいところなら、苦しい苦しいで一生を通ったっておかげは頂いても徳にも力にもならん、金光様の御信心はもうどこまでも、お徳を頂くことだと私は思います。ですから、結局与えられた修行を、本気で神様が与えてくだっさった修行として受けていく姿勢を作っていく、そのことに本気で取り組ませていただく、そこからその問題にお礼が言えれる心が開けてくる。今朝そういうお知らせを頂いて金の鎖か、じゅずかわからんようなものを手にはめながら、御祈念をしているような形をしておるのがちようど、結婚のときに着る衣装を着た女の方の様子であった。いうならば、結婚の前提である。ここでは、合楽世界というが、神様と合楽しあえる、神様と交流し合える前提が、私どもがいう難儀なんです。それは、本当にお徳を受ける前のしるしのようなものですからそれを大切に出来る信心、それを大切にするということがです、今日はじめに申しましますようにこの神様のおかげを頂かなければ、たちゆかんのだ、いやこの神様のおかげを頂かなければ、人間の本当の幸せはあり得ないんだ、それをいかにも信心をしておっても自分の我力で、これからこれまでは自分がやれる、出来ん所だけを神様にお願いするといったようなことでは、そう言う心が開けてこない。いわゆる、神恩報謝の心というが、本当に神様のおかげを頂かなければ立ち行かんところから神恩報謝の心が生まれてくる。どんな場合であっても、神恩報謝である。どう言うきつい難儀な場合であっても、神愛、神願のなかにあるのだ、と言うふうに取らしてもらえる。わからしてもらう。そこの向こうにいうなら、ね、神様の願いであるところの信心しておかげを受けてくれとおっしゃるおかげあるのだ。先ず、我力を捨てること
。今日、こんなお届けをさせて頂いた。沢山の人を使って商売をなさっておられる、毎年、会社ですから、給料を上げてあげなければなららい、ところが、今年は、あんまり儲からなかった。いよいよ集金したところが、とにかく赤字が出らんばっかり、残ったものは、39万円しか残らなかった。それで思うておるとうりに給料を皆に上げてあげられなかったけれども、社員の人達が、もちっと上げてくれと言う、どうさせて頂こうかと言うお届けでありました。そらまあ、いろいろ本当に信心があるのならば、39万でも残ったと言うことは有難い、この頃は赤字で倒産というようなところも沢山あるのに、おかげを頂いて、ほんの僅かではあるけれども残った、しかも、39万と言うその金額がいいじゃないですか、いうなら、サンキュウですよ。だからこれをサンキュウでうけて、社員がいうとるに今年は皆さん一生懸命頑張ってくれたけれどもこれだけしかのこらじゃった、。 というてそれをポンと投げ出してやる、自分をゼロにすると言うことになると、来年な、これにまいっちょ0がつくだろうのと、話したことでした。39万にいっちょ0をつけたら、どげんなるですか、390万ちゅことになる、また0をつけよると390万が、3900万という事になる。自分というものを、空しゅうする、信心のね、進め方というのは、神様がいつもね、そういうように、わざわざ39をサンキュゥと、いただかなければおれないような、演出がその前後にあっておるですね、信心をさせていただくと、けれどもなら本当に合楽の信心が解っておられないから、それこそ嘆らいで実は、今年はこげなふうで儲かってはいない、だから今年あげたは、僅かばかりだけれども、我慢してくれと、実際のことを言うたら皆もわかるだろう。と言うだけでは、そこはなんなしに過ごしたというだけでしようが、ところが、そういうときに例えば教えられてからしたんじゃ遅かです。自分がその気にならなければ、これは、サンキュウで受ける、そして39万を投げ出す、そう言う心になるときに自分を空しゅうするから、39万に0が付く、390万といったようなお徳の世界に入っていくことがでけれる、いうならば、チャンスを頂いておるけれどもそれは、なかなかお徳を頂く、おかげを頂くということだけに絞ってしまってお徳を頂くということにしきらん、日頃信心が出来ておらんとこれができんとです。それは教えられてからでは、やっぱいけません。自分が、その気にならなければ、自分が本気でゼロにならしてもらう時に、自分が空しゆうなった時にね、Oがひとつづつ増えていく390万なら3900万、3900万ならまた一つ0が増えると言う、そういう、いうならば、限りないおかげの世界がそこから開けてくるのです。信心とは、結局空しゅうなる、それに自分の我が少しでもあったり、自分の力がそこに入ってきたんでは、それが本当の空しゅうなる、0になると言うことにはなりません。これは、一事が万事にそうです。日頃しっかり信心の、合楽で言われる、リズムにのった生き方を日常生活の上に頂きあらわしていっておると,いよいよの時に、そのことに対して,合掌出来る心が、おのずと出来てくる。とにかく、これを引っ張っていく,手が痛いという思いをせんでも,そのことを合掌して受ける気になれば、そこを,難なく通り抜けていくおかげが,受けられる。そう言う心の状態を目指しての信心でなからねばならんと,思います。どうぞ。